構想紹介

 

東毛多摩ライン

 

 ≪構想概要≫

群馬県東毛地域と東京都多摩地域を、新規路線と既存路線を組み合わせて結び、直通列車を運行させることを目標としています。そして、東武東上線を活用し、群馬県東毛地域から川越・池袋方面への直通運転も検討されます。また、成田レインボーラインと併せて、首都圏北部の新しい環状鉄道を形成します。(この構想には、熊谷スポーツ文化公園アクセス鉄道を含みます。)

 

≪構成路線≫

区間   路線名
太田駅(群馬県)から東松山駅(埼玉県)まで 新規路線 (仮称)埼群線
熊谷市大幡付近から熊谷スポーツ文化公園まで(支線) 新規路線 (仮称)スポーツ文化公園線
東松山駅から坂戸駅まで 既存路線 東武東上線
坂戸駅から西大家駅付近まで 既存路線 東武越生線
西大家駅付近から高麗川駅まで 新規路線 (仮称)日高線
高麗川駅から八王子駅まで 既存路線 JR八高線

 

≪新規路線ルート案≫

路線名 ルート案
(仮称)埼群線 東武伊勢崎線太田駅より南下。東武小泉線西小泉駅からは、過去存在した東武熊谷線の計画ルート・廃線ルートをなぞるようにJR高崎線熊谷駅まで。熊谷駅からは荒川を渡り、熊谷市吉岡地区を経由し、おおむね国道407号線に沿って東武東上線東松山駅まで。
(仮称)スポーツ文化公園線 (仮称)埼群線の熊谷市大幡付近から分岐。熊谷スポーツ文化公園まで。
(仮称)日高線 東武越生線西大家駅付近より分岐。過去存在したセメント工場貨物線の廃線ルートをなぞるようにJR八高線高麗川駅まで。

 

 

≪整備方法≫

都市鉄道等利便増進法による速達性向上事業としての整備を目指します。(上下分離方式)

 

東毛特急

 

構想ができるまで

もともと埼玉県北部地域には、1983年(昭和58年)まで東武熊谷線がありました。東武熊谷線は熊谷駅から妻沼駅までの10キロメートルあまりを結ぶ非電化のローカル線でした。もともと戦中に計画された軍需路線で、埼玉県熊谷市と群馬県太田市を結ぶはずでしたが、熊谷から妻沼まで開業したところで終戦を迎え工事は中止されました。

戦後、工事が再開されることはなく、中途半端な路線のまま存続しました。しかし1983年(昭和58年)利用客が少ないことから熊谷線は廃止となりました。

その頃、国鉄(現JR)が日本各地の赤字ローカル線を次々と廃止している時期でした。それら国鉄の廃止路線の中には、沿線地域の自治体や企業が協力して路線の経営を引き継いでいったものが多く見られましたが、東武熊谷線にはそういった受け皿はありませんでした。

東武熊谷線の沿線地域には、廃止される前から群馬県と結ばれれば便利な路線になるとの見方が多くありました。廃止後も、群馬県側へ貫通すべきだった、あるいは改めて群馬県側へ鉄道を敷くべきだとの意見がありました。

2006年(平成18年)頃には、埼群軌道新線を実現する熊谷市民の会が、太田から熊谷のみならず、熊谷から東松山までを含めて鉄道新線の実現を求めて活動していました。結果的には、実現には至りませんでした。

筆者も埼群軌道新線を実現する熊谷市民の会に若干関わらせていただきましたので残念な思いがあります。ただ、あきらめてしまうのはもったいないと思い、個人的に新線構想のブラッシュアップを検討してきました。

当時、市民の会が訴えていた新線のルート案は、熊谷以南では東武東上線森林公園駅へ達するものでした。そして、森林公園駅から東武東上線に列車が乗り入れ、東松山駅を経て池袋まで到達するというものでした。

その構想を筆者が振り返ってみると、森林公園駅へ至る旧熊谷東松山有料道路に沿ったルートより、東松山駅へ至る国道407号線に沿ったルートのほうが沿線人口は多く、鉄道の利用客が見込めるのではないかと思いましたし、そちらのルートであれば、東松山市東平地区など、ある程度まとまった人口のある地区から東松山駅や東松山市中心部へのアクセスに活用でき、東松山側の利便を叶えることができると考えました。

また、埼群軌道新線が最終的に目指すものが、東京へいかに到達するかでありました。しかし、時代の要請としては東京へ向かうことのみならず、地域相互間の交通を拡充していくことについても重要ではないかと感じました。そして、太田・熊谷・東松山の間に限らず、便益が広域に波及する路線である必要性も感じました。したがって、埼群軌道新線のルートは、南下するなら東京より八王子、つまり東京都多摩地方を目指すべきではないかと考えました。それにより、関東地方のなかで大きな存在価値が見込めるのではないかと思ったのです。

八王子を目指すにあたり、途中からJR八高線に合流するのが適当ではないかと考えました。そこで、どこから合流するのかを検討しました。いろいろ見ていくと、日高市のセメント工場へ、以前、北側は東武越生線からと、南側はJR八高線から、貨物線があったことを知りました。既に廃止されていますが、なるべく廃線敷を活用できないものかと思い、JR高麗川駅から八高線へ合流するルートとしました。

こうして、東毛多摩ラインという構想ができあがりました。